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  • 日本一の兵(つわもの)真田幸村(信繁)の生きざま

今からおよそ400年前の慶長19年(1614)、「大坂冬の陣」が勃発し、ここ大阪の地を舞台に豊臣・徳川両軍が対決しました。大坂城に拠る豊臣軍は徳川の大軍の包囲に耐え、一旦講和が結ばれましたが、翌年5月再び起きた「大坂夏の陣」で敗北。大坂城は炎上して豊臣秀頼と母淀殿は自害。秀吉が築き上げた大坂城は、豊臣家の滅亡とともに、永久に地上から姿を消しました。この「大坂冬の陣・夏の陣」で華々しい活躍を見せたのが豊臣方の浪人(牢人)たちでした。彼らは徳川の大軍相手に一歩も退くことなく、徳川家康を大いに苦しめ、驚かせました。


そうした浪人衆の中でも、ひときわ華々しい活躍をしたのが「真田幸村(信繁)」です。

彼は戦国から天下統一の時代を生き、慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こるや否や、さっそうと歴史の表舞台に登場して、翌年の夏の陣で討死をとげました。

幸村は関ヶ原合戦ののち、父昌幸とともに紀州九度山に配流され、14年もの歳月を妻子ともども同所で穏やかに過ごしました。ところが、大坂冬の陣が起こると、明らかに劣勢にあった豊臣家のもとへ馳せ参じ、敢えて火中に身を投じました。冬の陣では真田丸の攻防戦で徳川方の大軍をほんろうして大勝利をおさめ、夏の陣では徳川家康本陣に捨て身の突撃をかけ、家康をあと一歩のところまで追い詰めました。。武家社会の片隅に追いやられていた彼が戦国最後の戦いで放った一瞬の輝きは、強烈な残像となって同時代の人々の脳裏に焼き付けられ、400年もの時を経た今もなお私たちの心をゆさぶり続けています。


こうした大坂の陣や真田幸村について、大阪城天守閣が発行した図録で詳しく紹介しています。


テーマ展図録「真田幸村の生涯を彩った人たち」(商品ページはこちら


  

5月7日は大坂夏の陣最後の決戦が行われた日で、真田幸村は討死し、大坂城は落城しました。

今年の5月は大阪城天守閣発行の図録等で、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と謳われた名将真田幸村の生きざまをたどってみませんか。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、さまざまな活動が自粛されていますが、こんな時こそ豊かな「おうち時間」を過ごして頂ければ幸いです。

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