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【7月徳川大坂城特集】大坂城を訪れた将軍家光・家茂・慶喜


「大坂城」というと豊臣秀吉が築いたことで有名ですが、慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣方は徳川方に敗れて豊臣家は滅亡、大坂城は焼失しました。その後徳川幕府は、「豊臣の大坂」から「徳川の大坂」への転換を図ります。元和5年(1619)7月、2代将軍徳川秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、翌年から西国・北国の諸大名を動員して大坂城を根本から築きなおして、寛永5年(1628)には全く新しい徳川将軍の城を完成させました。

 

3代将軍家光は生涯三度大坂城を訪れていますが、三度目となった寛永11年(1634)7月から8月にかけての上洛と大坂城入城はそれまでの二回とは違い、父秀忠の没後、名実ともに独り立ちした家光の権威と慈悲を朝廷や西国大名、畿内の直轄都市民に見せつけることを目的とするものでした。まず京都では朝廷へ多大な献上を行うとともに、市民に五千貫もの銀を配りました。そして閏7月25日には再築工事が完了した大坂城に入り、翌日大坂・堺・奈良の三都市に対し地子(土地に課される税)の永久免除を宣言しました。大坂では、その恩恵に感謝した市民により釣鐘が作られ、その鐘は「仁政の鐘」と呼ばれましたが、現在その釣鐘は大阪市中央区釣鐘町の釣鐘屋敷跡に設置されおり、日に3回自動で鐘が鳴らされています。釣鐘町という町名もこの鐘によるもので、今もなお家光が大坂城に入城した痕跡を見ることができます。

 

家光が大坂城に入城した後、長い間徳川将軍の大坂城入城はありませんでした。次に大坂城に入城したのは幕末動乱の表舞台に立たされることとなった14代将軍家茂でした。家茂は徳川将軍の中で最も長く大坂城に滞在し、唯一人大坂城で生涯を閉じた将軍です。文久3年(1863)に大坂城を訪れたのが最初で、慶応元年(1865)から家茂は大坂城を本拠地としました。

現在放送中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれていますが、このころの幕府は国内外に問題を抱え、その権威は低落の一途をたどっていました。巻き返しを図る家茂と幕府は、大坂城の潜在能力に期待をかけましたが、翌慶応2年、彼は長州戦争の敗報に心を痛めつつ、21歳でその生涯を閉じました。現在の天守閣改札口のすぐ南側にあった本丸御殿内の銅御殿で最期を迎えたと考えられています。

 

最後に大坂城に入城した徳川将軍は言わずもがな、15代将軍慶喜です。慶喜は将軍在職中、京都の二条城、そして大坂城を活動の本拠とし、慶応3年(1867)3月から4月にかけて将軍就任を披露するため外国公使向けの会見を大坂城で開きました。幕府は政権末期、なおも国内の安定や国力の増強、さらに国際社会への積極的な参加をめざし、その華やかな舞台となった大坂城は最後の輝きを見せました。

慶応3年10月14日に慶喜は大政奉還を行いましたが、12月9日には王政復古のクーデターが起き、新政権が樹立されます。慶喜は京都を離れ大坂に入り、明治元年(1868)の正月を大坂城で迎えました。慶喜は交渉によって新政権への参加が実現できると考えていました。しかし旧幕府方の大半は討幕派の謀略を憎み、力ずくで京都奪還をめざしました。正月3日に鳥羽・伏見の戦いが起き、戊辰戦争が始まりましたが、旧幕府軍はこの戦いで大敗を喫し、敗走しました。衝撃を受けた慶喜は6日、最後の牙城だった大坂城から脱走します。城内は大混乱に陥り、数日後には炎に包まれて落城し、徳川大坂城はその歴史に幕を下ろすこととなったのです。

 

 ※徳川大坂城特集については、以下の図録で詳細をご覧ください。


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